政治と宗教

水芭蕉
画像知の巨人とされるダイアモンド博士によると、宗教は何故あるかとの問に対して、以下の4点が回答されています。
1、 天変地異が相続く世代に在っては、不安を和らげてくれるのが宗教であった。
2、 不幸にして悲惨な境遇にあった時代では、慰めてくれるのが宗教であった。
3、 統治のために、支配者が人々を服従させる根拠としたのが宗教であった。
4、 戦争の正当化、即ち宗教の違いが戦争の原因になった。
このように概観すると先端科学が優先し、民主化が進んだ現代社会にあっては、宗教はあってはならないもののように思われる。古からのしきたりからか、先祖からの伝導かは分からぬが生活習慣病のように現代社会にも引き継がれているのが宗教であるようだ。日本には仏教があり、神教があり、外来のキリスト教がありで、宗教の自由の国であるが少なくとも支配者が統治のための根拠としている形跡はない。さらに現代社会では人々の不安を和らげる、人々を慰めるための効果的手段になっているとも思えない。平成の時代になって戦禍がない平和な日本においては宗教が政治に影響を与えた形跡はない。だからと言って宗教の信者がいる訳ですので、その思想の顛末について調べてみることにした。

世界遺産に登録されている日光の社寺を見学に行ったら、神さまである東照大権現を祀る東照宮とご神体である日光三山の本地仏として千手観音(男体山)、阿弥陀如来(女峰山)、馬頭観音(太郎山)の3体の本尊を祀られている輪王寺とは、更に日光の自然を祀る二荒神社が自然遺産である建築物の所管が複雑になっている。奈良時代から始まっている日本文化である神仏習合では家康を神として祀るには輪王寺境内であっても良かったわけです。仏教が伝来した奈良時代から明治元年までのおよそ1000年間は神仏が習合されていたのです。つまり、神と仏は同居するのが普通だったようです。
しかし、明治初期になり、日本人の霊性は仏教という異国の宗教によって穢され、歪められたと考え、神仏習合は仏教によって神道が穢された状態であるとして、神道を仏教伝来以前の姿に戻すべしとした「復古神道」が唱えられました。それまでは古典文学研究にすぎなかった国学では、外国は穢らわしい、獣のように穢れた異国人が、神国日本の地を踏み荒らすなどあってはならないと考え、開国に反対し、攘夷の実行を幕府に迫ったのでした。
この攘夷運動が、やがて討幕運動になり、幕府が倒れて明治維新が成立したわけです。明治政府は近代化・西洋化政策をとっていきますが、かって思想的に指導した国学者も維新の功労者には違いありませんから、明治政府は、国学者たちをじっさいの政治とはあまり関係のない神祇官として政府に登用しました。神祇官とは、宗教政策を担当する部署です。神祇官となり、一定の権力を得たこの国学者たちが、復古神道の掛け声の下にやったのが神仏分離令でした。明治政府は、神仏分離令により、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じたほか、神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じました。これによって、無数の文化財が破壊され、まさに日本史上最悪の文化破壊となりました。

護国寺
文京区ツアーでは護国寺に行ってみました。天和元年(1681)、五代将軍徳川綱吉が、その生母、桂昌院の発願により、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とし、号を神齢山悉地院護国寺と称し、寺領三百石を賜ったことに始まります。護国寺は徳川家の檀家寺でしたが、現在は一般に開放されており、お墓の数が多く広いのにはびっくりしました。

寛永寺
台東区ツアーでは寛永寺に行ってみました。天台宗の別格大本山のお寺です。
寛永2(1625)年に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、家康のブレインであったとされる天海大僧正によって建立されました。後には第四代将軍・德川家綱の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺(檀家寺)になりました。寛永寺の五重塔が何故上野東照宮にあるのか不思議でした。明治初期の神仏分離政策で東照宮にあった五重塔は打ちこわしの対象になったのですが、それを避けるため神官が寛永寺に寄贈して難を逃れたそうです。その後寛永寺では管理できないことから文化財として東京都に移管されたようです。結果として東照宮とは別の敷地に公開されています。

回向院
墨田区ツアーでは、回向院に行ってみました。回向院は、明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。この年、江戸には明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上が亡くなりました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸に万人塚として墳墓を設け、無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行い、御堂が建てられたのが回向院です。ここの境内には土俵が作られ、江戸時代に社会事業として寄付相撲、いわゆる勧進相撲が年2回開催されていたそうで、力塚などの石碑が立ち並んでいます。明治42年に同じ境内に国技館が建立されるまで76年間続いたそうです。

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